貴方は2011年2月10日何をしていましたか?
貴方にも、忘れられない人はいますか?
これは、私が人生でたった一度だけ時を巻き戻して欲しいと願った物語。貴方とすれ違い、そして貴方と再び巡り会うまでの物語。
・プロローグ:2011年2月10日、石動駅で。
私には、忘れられない記憶がある。まだ寒い季節、貴方が来るのを待っていた駅の風景。あの日2号車3番扉から乗ってくるはずだった貴方は来ず、私は何かの間違えだと思って駅に降りた。
ー貴方はきっと来る。だって、約束したんだもの。石動(いするぎ)の駅で乗るからって言ったんだもの。ちょっと遅れてしまってきっと今頃焦って駅の階段を駆けているわ。
制服の上に着たコートのポケットに手を入れて、不安を打ち消す様に、私はもうあまり暖かくもないカイロを握りしめていた。でも、先生が来るという微かな希望は、4本目の電車を見送った後に消えた。先生、私と一緒に、発表の一番最初に合格発表を見てくれるって言ってましたよね。なのに、どうして来てくれないんですか?もう浅香山学園の合格発表の13時ですよ。ねえ、先生…。
駅前広場の時を告げる鐘とネットで発表を見たであろう学生達の歓声と悲鳴がこだます中、私はもう先生が来ないこと、それから、今までの先生とは二度と会えないのだということが何となく分かってしまったのだったー。
・第1話:平日の普通電車のように
山本咲希27歳、職業は事務。私立文系大学を出て、地元関西の司法書士事務所で働いている。夢を諦めると言われている年齢25歳を通り越して、最近何となく自分の人生というものを悟り始めたアラサー女だ。
昔は、偉い人になりたいとか有名になりたいとかそんな気持ちもあったけれど、今は働いて給料をもらって、つつがなく生きることが私の望みになっている。現に、今の事務所に勤めてから欠勤したことは一度だけしかないし、先輩にもそこそこ可愛がられているし、毎日ほぼ定時で仕事を終わらせて満員電車で揺られて帰る、善良な小市民である。給料がそこまで高いわけでもないし、恋人もいないけれど、私はこの日常を大切に感じることが出来てしあわせだ。
「夢を諦めないで」そんな広告やキャッチフレーズは陳腐な程に使い回されて、市井に出回っているけれど、私は夢を諦めて毎日穏やかに暮らす方がしあわせになれる人だって大勢いるんじゃないかと思っている。まあ、私もその一人という訳だ。多分私の小説を書いたって、私の親以外は興味もへったくれもないだろう。
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「山本さん、ちょっと悪いんだけど、今日の13時、登記書類を双葉不動産まで届けてくれないかな…」ある冬の寒い朝のこと、私は司法書士の先生にお使いを頼まれた。普段、登記書類は郵送でやり取りをしているのだが、稀にどうしても急ぎで欲しかったり、土日を挟んでしまうので先に欲しかったりする先方がいると私のような事務職が届けに行くこともあるのだ。私はあまり法律に詳しくないので、先方から質問されないか怯えているのだけれど、先生はそんな気も知らないでよく下っ端の私にお使いを頼むのだった。
「分かりました、双葉不動産って、石動双葉の駅前にある双葉不動産ですよね?持ってくだけで大丈夫ですよね?」
「大丈夫、山本さんは本当に心配性だね。あそうだ、銀行で支払いあるみたいだから、出来たら支払いと記帳もして欲しいな〜。今日は比較的落ち着いてるし、昼飯も兼ねて長めに外出て大丈夫だから」
「ありがとうございます、承知しました〜」
石動駅は、電車で隣の県まで行かないと行けないので、往復で1時間半は掛かる。ものすごく無駄な労働…と思いながらも、比較的外に出るのが好きな私は、先生の了承も得たし、目一杯寄り道をしてやろうと考えた。石動の駅ビルに入ってる無印良品で買い物して、ドラッグストアで化粧品とか覗いて、帰りにランチしよう。今日は帰って来たらもう15時頃だし、忙しくなくてよかったな。それにしても、浅香山線の電車に乗るの久しぶりだな…。