浅香山ラプソディ第7話

第7話:浅香山学園

 「…え?」

あの時の先生と全く同じ。この人一体何なんだろう?私が、それってどういう…?と言う前に、駅員は「じゃ」と言い残して駅員室に戻っていった。

先生にしても、駅員にしても、みんな私をハッとさせることを言って聞き返すことも許してくれない。そう、前にもこんなことがあったなー。私は電車を待つ2号車3番扉の位置で目を閉じた。


それは、小学校低学年のクラスの授業の時のことだった。私は空き教室がないせいで、低学年授業をやっている席の後ろで自習をしていた。私達高校受験クラスや中学受験クラスは人数が多かったのだけれど、小学校低学年のクラスはまだ開講したばかりで、人数も数人しかいなかったから、自習をしていても邪魔にならなかったのだ。先生には、子ども達が問題を解く間よく喋るという癖があったので、その日も先生は急に話し始めた。

「このお姉さんな、クラスで成績ほぼビリなんだってよ」

突然話題に上げられた私は面食らった。子ども達の前でそんなことを言わなくていいじゃないか…そう反論しようとすると先生は続けた。

「でもな、浅香山学園の特進Sクラス目指してるんだってさ、すごくない?…高坂先生とよく喧嘩してるし、塾でも何言ってんだって言うやつもいる。それでも絶対に浅香山学園に行くんだってこの前も泣きながら勉強してた。えらいよな」

…いつものはっきりと通る声と笑った顔とは違って真剣な表情で語る先生。その言葉に、私は「先生ってやっぱり私のことちゃんと見てくれているんだな…」とジンときてしまった。

黒崎秀成先生。ちょっとひげが生えてるから、私はいつも「ひげ先生」とか「ひげちゃん先生」と呼んでるけど、本当は何度かに一度、先生の下の名前のひでちゃん先生と呼んでいる。先生は私のことをよく見ているし、体調が悪い時や悩み事も何でも当ててしまうから「ひでちゃん」と呼んでいることも実は気付かれているんだろうか?

本当は、瞳を見つめられて泣いてしまったあの日から先生のことが好きになっていたけれど、認めたくなかった。でも、見ないふりをすればするほど、どんどん先生のことを好きになっていく自分がいるのが分かっていた。

でも、決して気持ちは伝えない。何故なら、先生の左手薬指には鈍く光るマリッジリングがあるから。自分の自己満足で先生を困らせるわけにはいかなかった。私の先生もとい、ひでちゃんへの思いを気付かれないようわざとぶっきらぼうに話すことはあれど、先生と生徒以上の関係になったとかって話は一切ない。結局、私がどれだけ好きでも、所詮は中学時代の独りよがりの片想いだったということだ。でも、この話に唯一関係が揺らぎそうな要素があるとしたら、それはこの後のひでちゃんの発言だろう。ひでちゃんが私に言った言葉は、私の胸の中に未だに焼け木杭のように消えず残っている。

ー私が努力している姿を見てくれていたことに感動していると、ひでちゃんはまたもや急に話題を振って来た。

「山本、お前って蓼だよな」

ハッとしたように呟くひでちゃんに、思わず私は「何を言ってるんよ」とつっこんでしまった。ひでちゃんは笑いながら続ける。

「蓼って苦い草だから大抵の虫には嫌われたり避けられたりしちゃうけど、一部の虫はこの草がすごい好きなんだよ」

さっきも思ったこと。いつもも低く優しいテノールが素敵な声だと思っていたけれど、その時は何となくいつもと違う口調で、私もドキッとする。…つまり、何が言いたいんだろう?こんな私にもいいところあるよってことかな?そんなことを考えた次の瞬間、先生は一呼吸置いてこう言った。

「まあ、俺は好きだけど…蓼」

え。それって…それってどういうこと?私が蓼で、ひでちゃんが蓼を好きってことはつまり…つまりひでちゃんは私を好きってこと?それくらいの理論はすぐに分かる私の頭は混乱して、答えを求めたくてひでちゃんの方を見た。…ひでちゃんと目が合った。ひでちゃんはいたずらっぽい目をしていたけど、何か言いたそうな私に気付いたのかすぐに目を反らして「よし、次の問題そろそろ解けたか〜?解説やるぞ」とさっきまでとは全然違う張り上げるような声で言った。

あの時に先生にどういう意味ですか?それって私のことを好きってことですか?と聞けたらどうなっていただろう。当時の私はそんなこと聞けなかった。聞いてしまったら、何かが変わってしまうと感じていたからだ。

好きと遠回しに言われた…その時は何も見えていなくて、ただただ嬉しいこととして受け取ったんだと思う。でも今考えると、ひでちゃんはマリッジリングをしていたし、9つも年が離れている私にそんなことを言ったのは何故か分からなかった。ただの冗談だと言われればそれまでだけど、そんなことを言う人にも思えなかったし、言うことのリスクだってあるのに、どうしてあんなことを言ったんだろう。

駅員の態度に昔話を思い出しながら、電車に乗っているうちに、気が付くとそこはもう浅香山学園だった。

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