第8話:運命
浅香山学園に到着したのは合格発表の13時前だった。駅員はああ言ったけど本当に学校に入れるのだろうかと一瞬懸念を抱いたけれど、駅から学園に歩いていく受験生、親、そして浅香山学園を見に来ただけであろう大勢の人達を見るとその不安は払拭された。
結構人いるんだな…。私が13年前に合格発表を見に来た時は、ひでちゃんを待った後だったし、特進Sクラスに自分の番号がないのを見てすぐに帰ってしまったから、こんなに周りに人がいたかどうかなんて覚えていなかった。
どうしてもひでちゃんと同じ浅香山学園特進Sクラスに行きたくて、一年間一生懸命勉強したけど、関西中の秀才が受験する特進Sクラスには結局受からなくて、私の番号があったのはSの二つ下のBクラスだった。その後の学年テストの結果次第ではSクラスに上がることも夢ではなかったのだけれど、その後、家から割と近い公立高校に受かったことで、両親から「浅香山学園は遠いから通うのが大変だから諦めなさい」と言われてしまったのだった。
浅香山学園に入学していたら私は違う人生を歩んでいたんだろうか?私の進学した公立高校とは違う、憧れた臙脂色ネクタイに深い紺の制服。もし一つだけ願いが叶うなら、少し迷いながらもこの制服を着て先生に合格したよって報告したかったと答えるだろう。
合格発表のある広場を目指し、校内を歩いていると、13時を告げる鐘がなった。それとほぼ同時に、結果を見たであろう人達のワァッという悲鳴のような歓声が上がった。何となく自分もその場に居合わせたくなって、早足で進む。
神様。もしも時間を巻き戻せるならば、どうか13年前の今日に戻してください。そして、ひでちゃんともう一度会わせてください。言いたかったことが沢山あるんです。まだ何も伝えられていないんです。
…無理な願いだと分かっているのに、何故か願ってしまう。入試に落ちてしまったのだろうか、泣いている制服姿の女の子や、どこか俯き気味の学生が向こうから歩いてくる。私は、帰る人達を掻き分けて掲示板を探した。
「確かこの先にあったはず…」
もう私の番号が掲示されることなんて無いのに、走ってしまう。何を期待しているのか自分でも全く分からなかった。でも、この先に私の求めているものがあるような気がしたのだ。
その時だった。
「黒崎先生、来年はニューヨークですか」
すれ違った人の言う声が聞こえて来て、ハッとした。黒崎先生?私は思わず振り返る。声の主の品の良さそうなおじさん、その横には、忘れもしないラルフローレンのベストを着た少し背の高い黒髪の男性…完全にひでちゃんだった。
私は驚きすぎて、声ともつかない声で「あ…」と小さく叫んでしまった。今まで私って生きていたのだろうかと疑うくらい力強いリズムで心臓が脈打ち始めて、喉が乾いて私の世界は滲み始めた。
ひでちゃん。ひでちゃんがいる。何も言わずに私の前からいなくなったひでちゃん。今すぐに声を掛けたかった。しかし、なりふり構わず声を張り上げられる程私はもう子どもではなかった。
「そうなんですよ、立ち上げでね…浅香山から、日本から離れるのは寂しいですね」
「黒崎先生は理事長から信頼されてますからね、ニューヨークでも元気でやって下さいね」
「はは…ありがとうございます」
二人の会話が聞こえてくる。ひでちゃんは浅香山の先生になっていたのか…?しかも、ニューヨークってどういうこと?私は話が読めず困惑して来た。とにかく折角会えたのだ、少しだけでもいいから話したい。そう思って少し離れてひでちゃんの後ろを歩く。
「今年も面白い生徒達が入って来ますよ、僕が面接した生徒達を指導することが出来ないのは残念です。でも、稲田先生がいたら僕も心強いですよ」
「そんな…恐縮です。でも、ニューヨーク校も中々ユニークだと思いますよ。期待してます」
私の知らないひでちゃん。13年の月日は彼を私の知らない誰かに変えてしまった。私の前からいなくなって13年のうちに、浅香山の先生になって、今度はニューヨークに行ってしまう。とうとう本当に手の届かない人になってしまうようだ。
階段に差し掛かったひでちゃん達は、軽く会釈をして別れた。階段を登るひでちゃん。私はその場にへたりこんでしまった。もしかしたら、私のことが嫌いで目の前から去ったのかもしれない。仮に一億譲って私のことを好きだったとしても、何も言わずに立ち去るなんておかしい。なのに、今更ひでちゃんの前に私がノコノコと現れて一体何を喋るというのだ。会わない方がしあわせなのだ、きっと。
「ニューヨークでもお幸せに」
そっと呟いてみた。今まで我慢していた涙が溢れ出して来た。ひでちゃんは、英語が得意だった。どこで習ったんだというくらい流暢に問題文を読む、その声が好きだった。噂によると、家は大手三葉銀行の役員の家で、ひでちゃんも将来を有望されて育ったのだそうだ。「だから、本当はこんなところで個人塾やるような人じゃ無いんだよ、黒崎さんは」と高坂先生が言っていたことがあった。ひでちゃんは私のような生徒を救いたくて個人塾を開いたと言っていたけれど、他の選択肢を見つけて羽ばたいていったって、何も不思議では無いのだ。
でも。私はひでちゃんと約束したのだ。浅香山生になったら、このままの学力じゃ授業についていけないから、高校生からもずっと英語を教えてあげると。先生は、照れたような、それでいてどこか嬉しそうに「春からも山本と一緒か。お前からは離れられないな」と言ったのだ。
ーずっと引っかかっていたのは、その約束があったからなんだ。約束さえなければ、私はただの生徒で、ひでちゃんはただの先生だった。遠回しに好きと言ってみたり、高校生になっても勉強を教えてあげると言ったり、しかもただでって、もうそれはきっと、遠目から見たって普通の関係じゃ無いと思う。
ひでちゃんにとって、少なくとも13年前は私は特別な存在だったはず。やっぱりこのままじゃ、またひでちゃんを引きずって生きてしまう。今日ひでちゃんに会ったのは運命だ。私は急いでひでちゃんが行った階段を駆け上った。