第10話:ほんとうにほしかったもの
「ひでせんせい…?」
「山本がいつまで経っても見つけてくれないから俺どうしようかと思った」
ひでちゃんは昔とちっとも変わらない笑顔で続けた。
「山本、広場からずっと俺のことストーカーしてたじゃん、びっくりした」
それでさーなんて、当たり障りの無い話を続けて、笑っているひでちゃんに、私は違和感を拭えない。なんで?なんでこんな風に笑ってられるの?私の受験の結果は触れないの?自分がいなくなったあの日のことは?…感情が溢れ出して止まらない。でも、言いたいことが沢山あるのに、それを言語化してひでちゃんに伝えようとすると、胸が高まって、今にも泣き出しそうだった。
「山本…?大丈夫?そういえばさ、山本って、田中達と一緒の期だったよな」
泣きそうになっている私なんかいないかのように、ひでちゃんは言った。
「田中、大阪大学の医学部卒業して今は臨床医だってさ」
その一言に私の胸がズキリと痛んだ。
田中。田中美姫。私と同じ塾で、いつも模試で市内1位だった女の子。美人で人気者で、中学生なのに「おばあちゃんの認知症を治したくてお医者さんになる」ってもう目標を決めてた。私とは正反対の女の子だった。
「田中ってやっぱりすごいよな。尊敬する」
その一言で、私はすっかり悟ってしまった。ひでちゃん、いや先生にとって、私なんか最初から眼中になかったのだ。私が高校に行ったら、その先は何をしようがもうどうだっていいんだ。先生のことを気にしていたのはずっと最初から私だけだったんだ。
私は小さく頷くと
「そうですよね、やっぱり田中さんには敵わないな〜」
と笑ってみせた。そこで終われたらよかった。
「でもね、私も私なりに生きてるし、田中さんにも負けたくないなって思ってる。先生には感謝してます。本当にありがとうございました。もう言う機会なんてないと思ってたから、お礼が言えて嬉しいです」
私は、大好きだった人から、自分の話が出なかったことが何故だか無性に悔しくて、早口でそう言った。
「山本…」
「先生。私、何者にもなれなくて、ごめんね」
そこまで言って、私にはこれ以上の言葉が出てこなかった。先生、先生は私の可能性を沢山見つけてくれたよね。「この子には何もないんです」という母親に「この子は人を助けるのが好きで医者に向いているかもしれません」とか「国語が得意だから、小説家はどうでしょうか。北高校なら国語科もありますよ」とか一生懸命言ってくれたのも覚えてるよ。私の将来を私よりも考えてくれている人がいる、それだけで死ぬほど嬉しかった。将来は絶対に先生に夢を叶えた私を見てもらうんだって思ってたのに。
私は走り出した。恥ずかしかった。これ以上先生に格好悪い自分を見て欲しくなかった。夢も何もなくて、ただ毎日何となく生きてる自分を、すごい夢を持って生きている田中さんと比較して欲しくなかった。
時計台の階段を走って降る。下へ下へ、深く暗く。きっともう光のあるところへは登ってこられないだろう。
その時、グイッと腕を掴まれた
「待てよ、山本。また逃げるのか」
「だって」
「田中と比べられて悔しかったん?山本ってほんまにかわいいな」
「ばっ…!誰がかわいいって!」
追ってきた先生に私が振り向くと、赤面した私を全て見透かしたようなあの意地悪な笑みが浮かんでいた。また見れるなんて思っていなかった。嬉しいはずなのに、涙が出る。
「…逃げたのは先生の方じゃない」
気持ちが溢れて、言ってはいけない言葉が出てしまう。
「先生、合格発表の日に、2号車の3番扉から乗ってくるって言ったじゃない、なのにいなかった!」
先生は何も言わなかった。
「ねえ、私特進S落ちちゃって、その後は公立の北高校行ったよ、国語科。先生が勧めてくれたから行ったんだよ。そのあとは、頑張って英語勉強して同志社大学に行ったの。それで、それなりに4年過ごして今は司法書士事務所の事務やってる」
「先生高校でも英語教えてくれるって言ったのに、全然教えてくれなかったから、大変だったよ。田中さんほど立派じゃないけど、私も頑張って生きてるよ」
先生はずっと黙って私の話を聞いている。その顔は、私が親と喧嘩してプチ家出をして、久々に塾に帰った時のあの切なげな表情に似ていた。私には、どうして先生がそんな顔をしているのか全く分からなかった。
「先生…どうして何も言ってくれないの、ねえ、どうして?どうしていなくなっちゃったの?」
どれだけ国語が得意で模試で一桁台を取っていた私でも、先生の心の中だけはいつだって分からなかった。そして、それが堪らなく切なくて悔しかった。
「山本、まずおめでとう」
口を開いた先生は突拍子もなく言った。
「浅香山、Bクラス合格してたな。それに、大学も同志社に行って、就職もして、本当に頑張ったな」
先生は一呼吸置いてまた続ける。
「それから、ごめん。あの日約束の時間に行けなくてごめん、何の前触れもなく塾辞めることになって、お前のそばにいられなくなってごめん。どうしても一緒にいられない事情が出来てしまって、今でもこうしてここの先生をしてる」
先生は遠い目をして時計台からの景色を眺めていた。昔、先生はここからこうしてよく遠くを眺めていたのだろうか?その時の先生は何を考えていたのだろう。
「どうして、一緒にいられなくなったの」
「どうしてだろうな」
「そうやってまたはぐらかすの」
「どうしてこうなったかは俺にも分からないし、山本は知らなくていいことだよ」
先生は昔から、都合の悪いことや隠したいことは「どうしてだろうな」と言って絶対に言わなかった。こうなったら、梃子でも動かないことは知っていた、私は溜息を吐いた。
「分かった、もういいよ。私はそこまでの存在だったってことでしょ」
「そういうわけじゃないよ。大事じゃなかったら、あんな約束しない」
「嘘つき」
「嘘じゃない、山本咲希のこと本当に大切に思ってたよ。今だって一度だって忘れたことはなかった」
「嘘つき」
「本当や、山本がこれからも幸せであるように願ってる」
「…ニューヨークから?」
「…ニューヨークから。どこからでも」
遠い目をしていた先生がいつの間にか私を見つめていて、先生を見つめていた私と目が合ってしまう。本当の気持ちを悟られまいと私は目を逸らす。すると、先生は静かにこう言った。
「だって、山本は俺の大事な教え子やから」
それが先生の答えだった。先生の中で、私は特別でも何でもなくて、田中さんと同じでそれ以上でも以下でもない教え子なのだ。
「ねえ、先生。ひで先生。私も先生のこと幸せであるように願ってますね、だって、先生は私の恩師だから」
先生は面食らったような顔をしてから「ブハッ」と吹き出して笑った。「そうだな」と笑うその顔に、最後に一つだけ聞いておこうと私は唇を震わせる
「…ねえ、ひでちゃん先生。蓼食う虫も好き好きって、覚えてる?」
「…え」
大きく目を見開く先生。そのリアクションに何よりも驚いた私。
…先生、絶対に覚えてるんだ。私に間接的に好きって言ったこと今でも忘れてないみたい。
「…覚えてないって言ったらどうする?」
照れたような意地悪な目をして、とびきりの優しい声で、問うひでちゃん。私にはそれだけで十分だった。
「うーん、泣いちゃいますかね!私、虫が大好きな変わり者の蓼だから、ずっと覚えてるんで」
先生のことが好きで好きで大好きで、だけど、とびきりの笑顔でさよならが言える自分でよかった。先生に何があったか分からないけれど、これからの人生今日を思い出して生きていけそう。そんな気がする。
ずっとほしかったものを今日ひでちゃんからもらうことができたから。