浅香山ラプソディ第11話

第11話:そして月日は流れて

浅香山学園でひでちゃんと運命的な再会をしてから、2年が過ぎた。

私も29歳になって、あともう少しで30歳に手が届くところまできた。仕事は相変わらず、司法書士事務所で事務をしている。

「ねえ、もう29ってやばくない?」

中学の時に塾が一緒だった中川が、イカの塩辛を摘みながら気怠そうに言った。私達は、中学を卒業した後、進路が別れたものの、こうして半年に一度は会うようにしている。

「そうよな…だって、どっちも結婚する気配すらないし、給料も上がんないしね〜…」

もう20代ではなくなる事実を突きつけられ、思わず私も視線をどこか遠くへやる。油で汚れたグラビアアイドルのポスターと茶色く変色した壁のメニュー表が、私の哀愁をより一層深くした。いたたまれなくなってテレビをぼんやり見ていると、浅香山学園のCMが流れてきた。

「浅香山学園は創立100周年を迎えます」

そんなアナウンスと共に、系列校が列挙されてゆく。浅香山学園・浅香山女学院・浅香山帝月中学高等学校・浅香山学園小学校・浅香山幼稚園…。

「えー浅香山って結構系列校あんだね、NY校だってさ。浅香山ってただでさえお金持ちの学校なのに、NY校に通ってる子達はもっとセレブなんだろうね」

私って、結構テレビに食いついてしまっていたのだろうか。中川も一緒にテレビを覗き込んできた。

「それにしてもさ、あんた何で浅香山行かなかったの?」

さっきの会話の延長のような何気ない一言。でも、その一言が私の胸の奥の古傷をズキリと刺した。私は、何も感じていないかのように「うん、Bクラスしか受からなくてさ。親に公立に行けって言われてたんだよね」と返した。すると、中川が驚くようなことを言った。

「え、でもあんた何クラスでも絶対浅香山に行って、ひで先生と同じ特進Sクラスに進級するんだって燃えてたじゃん」

そう言われた瞬間「え?!」と腹の底から変な声が出てしまった。店の中の何人かがこちらを振り返った、マズいマズい。

「そんなこと言ってた?私」

「言ってた!だって、あんた黒崎先生のこと好きだったじゃん」

「え、私中川にそんなこと言った?!」

「言わなくても分かるって。あれは恋してる目だった。黒崎の方も満更じゃなかったよね」

私達、伊達に親友じゃないよ。と中川が笑う。見透かされていたのが恥ずかしくて、気付かれないようにグラスのコークハイを飲み干す。

「でもさ、先生も大変だったよね。なんか奥さんが塾に来てさ」

え…?先生の奥さん?中川がどうして知ってるんだろう。私は驚いた。心底驚いて、中川に「何それ?」と聞いた時の顔はきっと真顔だっただろう。

「あー。あんたは浅香山の合格発表の前に体調崩して塾来なかったじゃん…?あの時色々あってさ」

中川が語り始めた話の内容はこうだった。

ある日、普段と同じように授業をしていると、とても色白で華奢なロングヘアの美女が教室に入ってきた。

そして黒崎先生を見るなり「お父様が倒れたの、あなた電話に出ないし、どうすればいいかと思って…早く来て」と泣き出した。

高坂先生は美女、つまり黒崎先生の奥さんの知り合いだったらしく、何かを悟ったように二人を送り出した。そして以来、黒崎先生は帰らずじまいだった。

「…でね、高坂先生が言ってたけど、黒崎先生の奥さんは浅香山学園理事長のお嬢様なんだって。黒崎先生はずっと個人で塾を続けたかったみたいなんだけど、お義父さんが倒れてそうもいかなくなったみたい」

…なんだそれ。そんな話、一言も誰からも聞いていない。私が不満そうなのを見抜いたのか、中川は「あんたには内緒にしておくように言われたの」とため息をついた。

「あんた、先生がいなくなった理由知ったら、浅香山学園には行かないって言い出すんじゃないかって高坂先生が言ったのよ。だから口止めされてたの。みんな結構あんたのこと本当はすごいと思って応援してたしさ」

そう言って、中川はおしぼりをいじりながら気怠そうに遠くを見つめた。結局、あんた浅香山に行かなかったけど、この話も時効だからいいでしょ。なんてちょっとバツの悪い顔をして横を向いていた。

「そう、なんだ…」

私は中川に掛ける言葉が見つからなかった。「なんかごめんね」も違うし「なんで言ってくれなかったの」とか「言ってくれてありがとう」とかもしっくりこなくて、ただ声を出すだけで精一杯だった。その後も中川とは色々と喋ったけれど、ひでちゃんの話が衝撃的過ぎて、他にどんな風に話したかとか、何の話をしていたかとかを全く覚えてない程だった。

帰り際、中川はスッと真剣な表情をしてこう言った。

「これは考え過ぎかもだけど、黒崎先生はあんたのことすごい気に掛けてたし、どんな形でもあんたのこれからに関われたらいいなって思って浅香山に行くことを受けたんじゃないの」

私はその言葉をどう受け取っていいか分からなかったけれど、ずっとそれを頭の中で反芻していた。

…ひでちゃん。そんな大変なことがあったなんて知らなかった。みんなが知っていたのに、私だけが知らなかったひでちゃんの事情。私には梃子でも教えてくれなかったことが悲しい。そして、今日、私は29歳にして初めて浅香山に進学しなかったことを心から後悔した。

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