第14話:寂しさを埋めるもの
「ひでちゃん…お願いだからもうやめて」
ジリジリと迫ってくるひでちゃんに何故か恐怖を覚える私。
「咲希…咲希…」
先生が私の名前を呼ぶ。ダメだ、完全に先生の目がいってしまっている。個室居酒屋だからといっても、こういうのはよくない。はぁ…はぁ…先生から吐息が漏れる。机のレモンサワーの氷がカランと音を立てて崩れてく。私は逃れられないと観念してひでちゃんを受け入れた。
絡みつく手が汗ばんでいて、あれだけ握りたかったひでちゃんの手なのに、自分も緊張で手が冷たくなって感覚がない。先生は泣いているようだったけれど、顔を直視できそうにない、恥ずかしさで死にそうだし、何よりも口にキスをされそうなくらい顔が近づいていた。ひでちゃんがこんなに酒癖が悪いなんて、夢にも思わなかった。左手の薬指には相変わらず結婚指輪をしていて、個室で二人こんな痴態は許される所業ではない。
…あれ?先生と私、何故か居酒屋で飲むことになって、で、そこからどうしてこうなったんだっけ。あまり思い出せない。
こんなの嫌だな、と思いながら私の初恋がくすんでゆく前に、私はひでちゃんを抱きしめ、今日のことを回想した。
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「ひでちゃん」
そう呼ばれるのは、いつぶりだろうか。妻も同僚も、もちろん子どもにもそう呼ばれることはない。俺をそんなふうに呼ぶのは、元教え子の山本咲希ただ一人だけだ。前回俺が山本に会ったのは、山本が27で俺が35の時。合格発表日に現れた山本を見て、時が止まるとはこういうことを言うのだと思った。
俺は、山本と出会ってから山本のことを一度たりとも忘れたことはなかった。山本は、少し複雑な家庭事情の子どもで、時折寂しそうな目をしていたことを思い出す。周囲からも距離を置かれているのが分かって、何故か世話を焼きたくなった。同僚の高坂先生には「お前、深入りするのはやめとけよ」と言われた。高坂先生は鋭いので、俺がこうなってしまうことを察していたのだろう。昔、線路に落ちて電車に轢かれかけた子どもを助けて怪我をした時も「なんであんたはいつもそうなんだ」と呆れられた。お陰で当時やっていたサッカーの道は断たれてしまったけれど、それ以上に俺は、困っている人を見たくないのだ。
山本は、やれば出来る子だと分かっていた。周りの大人に見捨てられて腐っていくのを見たくなかったし、歯痒かった。ここでこの子を見捨てたら、一生この子はこのままだと思うと、山本の指導には熱が入ったし、ずっと気に掛かっていた。そして、山本が俺のことを慕うようになったことも、俺が山本のことを好きになってしまっていることも、俺自身が良く分かっていた。俺が、山本を好きだと心から思ったのは、保護者からのクレームが入り、自分が教師に向いているのだろうかと自問している時だった。塾のデスクで項垂れていると、山本は何かを察したのか急に俺に向かって
「ひでちゃんはすごいね」
と言った。若干ささくれていた俺はぶっきらぼうに「何が」と言ったが、山本はそれに怯まず
「だって、ひでちゃんって、本当に先生が天職だと思うから」
と俺に向かって微笑んだ。その瞬間「なんだ、この子は。俺が悩んでいることを見抜いているのか」と驚いた。
「そうかな」と俺が弱気な声を出して問いかけると、山本は
「そうだよ。だって、みんな先生の授業面白いって言ってるし、先生は咲希のことこんなにも手なづけちゃうし」と続ける。何気ないその言葉が胸に沁みた。
「私ね、結構先生に感謝してるんだよ。きっと、この先もひでちゃんは私の時みたいに色んな子のこと助けていくと思うし、ずっと素敵な先生でいてね」
山本はそういうと、家から持ってきたのか胃薬を一包置いて行った。薬のパッケージには「無理しちゃダメだよ」と書かれていた。俺は山本が心配してくれていることが嬉しくて、密かに泣いてしまった。本当に嬉しくて実は今でもそのパッケージを持っているのだ。