「あれ、今日はエクセルコダイヤモンドしてないんですね」
真美に言われてドキリとした。
僕の婚約指輪は梅田のエクセルコダイヤモンドで買ったブラックダイヤのもので、奥さんのダイヤモンドと対になった愛の証だ。いつも左の薬指にして、ふとした時に眺めては、奥さんや子どものことを想っている。しかし、今日は違った。
真美に悪いと思ったのだ。
真美は僕の元教え子で、この前9年ぶりに渋谷で会ってから、込み入った関係になってしまった。お酒が入っていたからといって、妻子を裏切ることをしてはいけなかったと、真美と結ばれたことを正直後悔している。
でも、真美を目の前にすると、そんな気持ちは吹っ飛んでしまう。真美が可愛くて仕方ないのだ。真美の全てを知りたいと思うし、奥さんから失われつつある健気さがたまらなく愛おしくて、抱き締めて壊してしまいたくなる。真美が右手の薬指に彼氏から貰った指輪をしていると、つい弄ってしまうし「なんで僕の前でしてるん、外してよ」って言いそうになってしまう。
だから、真美も僕に対して指輪のことで「どうして私と一緒にいるのに、指輪するの」と思っていたら嫌だなと思ったので、せめてもの誠実さを見せようと、今日は外してきたのだった。
「てか。なんでこの指輪がエクセルコやって知ってるん」
僕は、真美が指輪に気付いたことよりも、真美がエクセルコダイヤモンドを知っていることに焦った。
「だって、私結婚するならエクセルコの指輪欲しかったんだもん」
真美は顔も向けずにそう言った。この時、真美はどんな顔をしていたんだろう。その表情を考えた時、堪らなく真美を抱き締めたくなった。
「真美」
「何ですか…別にそういうつもりで言ったわけじゃないですよ」
愛おしい真美の低い声。無理している時の声だ。何も出来ずに、ただ耳をそっと食む。真美は真美で、何か僕のウエッティな心中を察したのか、やけに明るい声で
「まあ、私ウエディングに憧れがあって。それで、学生の時にブライダルバイトしてたんで。それで詳しいのかも」
と言った。そうなのか。知らなかった。同じ街にいたはずなのに、僕達が出会わなかった9年間のことを聞くと、真美がどこか遠くの人に思えて寂しくなる。この前偶然街で会うまでは全然思い出しもしなかった生徒の一人だったのに不思議だ。
「でも憧れって憧れのままでよかったなって思っちゃったんです」
「どうして」
「最初は感動してたんです。色とりどりのバルーンとお花に彩られてて、二人の馴れ初めのビデオとか、ご両親の手紙とかも興味深くて」
でもね、と真美は続ける。
「何日も何回も見続けたら、飽きちゃったんです、みんな大体おんなじような出会い、会もおんなじような進行をして、両親の手紙でも絶対に新婦が泣く。なんか、私はこんな予定調和な会、やりたくないなって思っちゃって」
確かに真美の言う通り、僕と奥さんが結婚して披露宴をした時も、馴れ初めビデオ的なものを作ったし、奥さんはお義父さん義母さんの手紙で大号泣だった。
「人生最高の瞬間が、バイトの子にとっての時給1,300円と一緒だと思うとガッカリ。大体の既婚者は、あの時は良かったなとか、奥さん綺麗だったのになとか思い出しながら生きるんでしょう。私は絶対にこの先もー…」
真美は、えらく気持ちが籠っていたのか、既婚者の僕のことも忘れて感情をあらわにしている。
「ごめん」
「大丈夫だよ、真美はこの先も人生最高の瞬間を更新し続けてゆく。だって、真美は本当に素敵な女性だから」
僕が真美の頭を撫でると、真美は決まり悪そうに「あー…うん、ありがとう」と返事した
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「ねえ先生、指輪別に気にしてないし、忘れないうちにしたほうがいいですよ。ここに置いてきてしまうことの方が問題でしょ」
一通りの所作を終えた僕らは、疲れ果てた子どものようにただ手を握っていた。だからなのか、左手薬指を触りながら真美は呟く。僕は、真美の優しさが嬉しくて、でもこれからお別れすることが寂しくて
「ありがとう、でも今はそんなこと言わないで」
と答えた。真美はただ一言
「ごめんね」
と言ってまた目を閉じた。僕もその顔を見て安心して目を閉じた。
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目を覚ますと、夜の7時だった。真美はきっと眠る僕を起こさないようにしてとっくに帰ってしまっていたのだろう。僕もそろそろ帰らないといけない。ベッドサイドに置いたメガネをして、指輪もしようとしたところで全身の血の気が引いていくのがわかった。
…指輪がないのだ。
奥さんは鈍い方だけれど、指輪をしていないとなると流石につっこまれるだろう。まずい。僕は急いで浴室やトイレといった、指輪のありそうな場所を手当たり次第に探した。一通り探して、やはり指輪がなくて呆然としていると、机の上にくしゃくしゃに丸めたメモが置いてあった。
メモを解くと、そこにはあのエクセルコダイヤモンドの指輪と共に「大事なものから目を逸らしたらダメですよ」と真美の字で書かれていた。僕は、真美に対して怒りが湧いてきたが、それ以上に安堵感がすごくて泣きそうになった。
真美は賢い子だ。僕が思う以上に僕が左手薬指のこの指輪に囚われていることも知っていてこんなことをしたのだろう。真美は、自分に怒りの矛先を向けさせて僕が家庭に帰りやすいようにしたかったのだろうか。それとも、純粋に意地悪をしたくて大事な指輪を隠したのだろうか。どれだけ身体が繋がっても、真美の本当の気持ちは分からない。
僕が真美に買ってあげることのできないエクセルコダイヤモンドを僕は左手薬指にはめる。ホテルの薄暗いライトに照らされて、ブラックダイヤの鈍い光がチラつく。この指輪の光は呪いだ。
この指輪がある限り、僕は大事な妻子のことを忘れられないだろう。そして、真美は僕に言う、指輪を外すなと。それだけのことをしていることを知れということなのだろうか。
今から帰る暖かい家庭と、一人家に帰っていった真美のことを考えて、溜息が出てしまった。僕はずるい人間だ。どっちのことも大事だと思ってしまう。どっちも失いたくない。そんな気持ちを見透かすように指輪が光る。
真美が焦がれるこの指輪の輝きが、僕には呪いに思えて仕方がない。