失恋して、摂食障害になった。
といっても、水は飲むし、飲むゼリーくらいは口にするし、そもそも、失恋だって、別に「嫌い」と言われた訳でもない。じゃあ、何故かと言うと、自分の中ではっきりと分かっている。
…10年間好きだった人に「不倫しよう」と言われたのだ。
私の中で、彼はいつも人の輪の中心にいて輝いていて、それはもう高嶺の花みたいな存在だった。私なんかが気安く話し掛けられる訳がないって知っていたから、一度も自分から声を掛けたこともない。でも、クズ男に騙された時も、職を失った時も、家柄を調べられて婚約破棄になった時も、ずっと「世の中には彼みたいな素敵な人がいるんだから、きっと人生捨てたもんじゃない」と心の支えにして生きてきた人だ。
彼とはひょんなことで再会した。卒業して10年、地元で同窓会をするという話になった時に、私は東京に住んでいたし、学校にもいい思い出がなかったから当然、ノー参加だったのだけれど、彼も東京にいるからノー参加だったようだ。それがきっかけで、LINEで話すようになった。
「森沢さん、今東京にいるんだ。どこ住み?」
彼がくれたその一行が嬉しくって、10年間生きてきて良かったと思えた。彼を追ってバカみたいに勉強して、家賃もストレスも高い東京に居続けた月日はこの為だったんだな、と泣いた。
9年ぶりに新橋で会った彼は、相変わらず背が高くて、黒髪も目鼻立ちも綺麗で、着こなしもセンスが良くて、左手の薬指に指輪をしていること以外、何も変わっていなかった。
「森沢さん、垢抜けたね」
「有村君は、昔のままだね…」
…ずっと、昔のまま素敵だよ。と言いかけてやめた。左手の薬指にこの言葉は軽すぎる。でも、有村君に「垢抜けた」と言われて、少しは彼との距離が縮まったのかなと浮かれてしまった。思い出すだけでも恥ずかしい。
二人で行ったのは、小洒落た肉バル。いつも食べないような小ぶりに盛られた赤身肉とちょびっとだけグラスに入ったワインは、有村君の理性を飛ばすには充分だったらしい。
3時間話したところで、彼は2軒目に行こうと言った。
「森沢さんと話せてよかった、もっと一緒にいたい」
有村君は、いつの間にか私の肩を抱いた同じ手で、会計を済ませて、スマートにコリドー街へ私を誘う。
「今日寒いから、抱き締めてもいい」
聞き終わる前に私は抱き締められた。私は束の間のしあわせと、急に襲ってくる罪悪感で、激しい動悸に襲われる。
「ダメだよ、奥さんと子どもがいるんでしょ」
「いいじゃん、今日は特別だから」
有村君は聞いたことのない甘い声で囁くと私の耳を食んだ。コリドー街の光がささない場所で、いやらしい音をさせて熱気が生まれる。私は、何が起きたのか理解が出来ず、しばらく有村君のされるがままになっていたが、彼の口元が私の口元に近付いた時、私の中の何かが千切れる感覚がした。
「あ、あのさ…会社に戻らないといけなかったの忘れてた」
私は彼を引き剥がし、腹の底から垢抜けた声を絞り出した。有村君は「は?」とさっきまでと打って変わった訝しげな表情になった。
「どういうこと、そんなの嘘じゃん」
期待が外れて怒ったのか、有村君の責めるような口調が私に刺さる。こういうの苦手だな。有村君からこんなこと言われるの嫌だな。流された方がいいのに。そう思ったけれど、それ以上に有村君を見ているのが悲しくて、私は「ごめん」とだけ言って有楽町の駅前まで走った。胸はまだドキドキと高鳴っていた。彼が追い掛けてくればいいのに、と一瞬思って、その妄想の不甲斐なさに後悔した。
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普段デスクワークをしているせいで、体力の無さには人一倍の自信がある。案の定、有楽町の駅前広場で動けなくなった。普段走ったりしないせいで、ヒールで靴擦れになっている。
さっき、起こったことを思い出してひどく赤面して涙が出た。有村君は、私のことが好き…なのか?実は、私のことを密かに好きだったから誘ってくれたのか?
しかし、身体の火照りが冷める頃になるとよく分かった。そんなことはないのだ。彼にとって、キスする相手も、その続きをする相手も、私じゃなくて、誰でもよかった。
お腹が空いたからコンビニに入って、別に好きでもないけどたまたま手に取った昆布のおにぎりを買って食べようとした。多分、それと同じなのだ。彼が好きな食べ物が例え焼肉だったとしても、お腹が空いていて食料がそこにあれば、目の前のそれを食べるのは当然なことなのだろう。
私にとって「特別」だった彼は、同じく「特別」という言葉を世界で一番陳腐に使う人に成り下がっていた。そのことが、とても悲しかった。
こうして、私の10年にも及ぶ恋は終わった。私が憧れていた有村君はもうどこにもいないと分かっているのに、あの日の夜から胸が苦しくて、うまくごはんが食べられなくなってしまった。
きっと彼は、今回のこと何とも思ってないし、きっとまた新しい私を探すだろうし、何なら男友達と笑い飛ばしていると思う。
何で私だけこんなに悩まないといけないんだろう。バカみたいだ。
「1日分のエネルギー」と書かれたゼリーを飲んでいるはずなのに、力が入らない。仕事はかろうじてしているけれど、帰ってきても何も手に付かない。
叶わない恋の終わりを迎えた私は、連日震える手で這いつくばって、ひたすらベッドを目指すだけの妖怪になってしまったのだった。