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空の色が淡く変わり始める16時、この女学院にはゴーン…と重低音な天鳳寺の鐘が鳴り響き、窓の外には鐘の音に不似合いな阪神間の街並みと海が見える。その景色を見ながら「あぁ、もう少しで今日も終わる」と私は無力なラットが生き長らえるかのように安堵した。
「ねえ、本当に1日が長すぎる」
私の前に座る茉莉音はそう呟くと溜息をついて、机の中に隠したiPhoneを操作している。手足の長い茉莉音には小さ過ぎる古びた木製の椅子をギシギシ言わせながら、前後にゆらゆらと揺れている。自身の不満を全身で表しているようだ。
誰なんだろう、7限という昼直後に次ぎ無気力なこの時間に、ほぼ異国語である古文の授業なんて入れた教師は。ナンセンスにも程がある。
「え、でもさ〜そんなこと言って、それなら何の教科なら許されるの」
茉莉音がさっきよりもちょっと大きめな声で私につっこむ。古文の先生は優しくて綺麗めなおばさんなので、ちょっとくらい喋っても許してくれるだろうと高を括っているのだろう。流石、茉莉音は人をよく見ている。
「うーん…世界史?」
「それはアンタが好きなだけじゃん。私は嫌!」
「じゃあ茉莉音は何がいい」
「音楽」
「それだって、茉莉音が好きなだけじゃん」
「いや、ここの音楽はあんま好きじゃない、謎の仏歌歌わされるしぃ…」
別に謎ではないだろう、ただの仏教歌だよ。と私は独り言つ。
「あーあ、私も聖愛に行きたかったなぁ。そしたら、キラキラした白いワンピースの制服に髪の毛だってウェーブに出来て、お化粧だって許されて。歌う歌だって聖歌で…いかにもお嬢様って感じじゃん。そしたら聖歌隊にでも入ったかな」
…始まってしまった。茉莉音の神戸聖愛学園に行きたかった話。神戸聖愛もこのご近所の中高一貫の女子校で、こちらも全国の進学ランキング上位校なのだけれど、その毛色は天鳳寺とは180度異なっている。聖愛はカトリック校で、校風も自由で、一応制服も礼服という形では存在するものの、基本的には服装も自由。茉莉音も神戸聖愛に行きたいと両親に訴えたものの、家が有名なお寺で檀家さんに示しがつかないからと天鳳寺に入れられてしまったとのことだ。
私はというと、私もどちらかというと聖愛の方に行きたかったのだけれど、聖愛は中学受験からしか入学出来ず、うちみたいに普通のサラリーマン家庭には無縁な世界だった。正直、この天鳳寺ですらお嬢様学校だから、あなたには馴染めないと親に反対されたものだった。
「まあ、聖愛っていいよね、分かる。特に茉莉音は聖愛って感じするし」
「ほんと!うちって超枯れてるし。寄り道したら写経30枚とか本当に無理なんだけど」
茉莉音の言う通り、駅前のカフェで「うふふ」と微笑んでいる聖愛生を横目に駅に直行しなければならないことに何か劣等感を感じる。きっと、ああやって自由を楽しんで東大とか京大とかに行って、金持ちの旦那さんも難なく見つけて、一生楽しくてキラキラした人生を歩むのだろう。一方で、天鳳寺生は学校に縛られ、寄り道したら写経させられて、そんなんで東大京大行ったって、芋くささは抜けないだろうし、そのまま拗らせてロクな大人にならないと思う。
「天鳳寺って男子との接点皆無だし、本当おわってるぅ〜」
茉莉音が若干ヒートアップして言ったところで、優しい古文の先生が「薬師院さん」と茉莉音の苗字を呼んだ。
「薬師院さん、素敵な男性と出会う為にも、是非古文をお勉強なさって下さいましね。教養は大事ですよ」
優しく茉莉音を諌める教師とどこからともつかないクスクス声に、茉莉音は何か言いたげな様だったけれど「…はーい」と言うしかないようだった。
「あーあ。ほんっとに、最悪!」
こうして、天鳳寺の気怠い一日は今日も終わりゆくのであった。