夜の美術館で、逢いましょう。
竹橋には、雨が降っている。濃藍色の空からさあぁと銀糸が垂れては落ち、落ちては消える。
女はこの夜と同じ色のブラウスとスカートを身に纏って、男を待っていた。場所は美術館前。そんなところで待っていては来るものも来ないだろうという隅っこに立って、居心地が悪そうにそわそわと銀色の腕時計を見たり空に目をやったりする。如何にも人を待ち慣れていなそうな様子だ。
平日夜の美術館は、休日とは打って変わって人がまばらだ。幸か不幸か、それは端で待つ女を際立たせていた。
男は竹橋の駅から走っていた。約束の時間に遅れることはあらかじめ伝えていたが、それでも早く女の元へ向かうことだけをかんがえていた。橋を超えて、美術館が見えてきた瞬間から男の目は女だけを捉えていた。
一方、女も男の来る方に見当を付けて今かいまかと見つめていたので、男が走ってくるのがすぐに分かった。背の高い男がベストスーツ姿で革靴の音が聞こえてきそうな勢いで走る姿は少し可愛く、そして何よりも美しく見えた。
「待った?」男は息を切らしながら女に聞く。女はお約束と言わんばかりに会社では絶対に見せないとっておきの笑顔で「全然」とだけ答えた。
この美術館では今、モダンアート・コレクションが開催されているようだ。きっと二人はこの企画展を観に行くのだろう。
今宵も、二人の鑑賞会が始まる。
Silent・Museum
さっきまで仕事終わりだったであろう二人は、荷物をコインロッカーに預け、もう違う世界の住人になっていた。異国の人物であろう郵便配達員や、教科書で見たことのあるブルーのチャイナドレスの女性。ちなみにこの絵の題名は「金蓉」というらしい。行ったことのない外国の街や、昔の日本。時代を超えてその誰かや場所が存在していた事実に不思議を覚える。
女は興味のある絵はじっと見つめ、長い時では屈んで観たり離れて観たりする一方で、あまり興味のない絵は素通りしてしまう。男は特に思い入れのある絵はないようだけれど展覧会の意図するゆかりある三作品の展示を、一枚一枚をゆっくり観ているようだ。
男も女も一言も話さない。手も繋がないし、鑑賞するリズムも違う。だけど、自然と同じ絵を観たり、離れてもお互いの目の届く場所にいる。
パシャリと写真を撮る音が聞こえた。見ると、老夫婦が手持ちのカメラで絵画を撮影しているようだった。それを見て女は端に立っているスタッフに何かを話している。少しして、女は礼をして、嬉しそうにスマートフォンを取り出し、気に入った絵を撮り始めた。どうやら、この美術展は撮影可能らしい。男も「その手があったか……」と言わんばかりにスマートフォンを取り出し、気になった絵を撮り始めた。
男はノートルダム大聖堂から見たパリの夜景の写真と、家屋が立ち並び舟が行き交う道頓堀の水面を描いた絵を撮影した。女はその少し先の「並木道」と題された昼夜不明なグリーンの色調の絵を撮影した。


一体男は写真の陰影に惹かれたのか、水面の豊かな色調に惹かれたのか、テーマに惹かれたのか、はたまた女は不思議な世界観に惹かれたのか、そこに映る人影に惹かれたのか。互いが何が気になって、何に惹かれて写真を撮ったのかは分からなかった。ただ何となく種明かしをするのは野暮な気がして「その作品を残しておきたかったんだろう」ということだけを、お互いの記憶に残すことにした。

展覧会も中盤に差し掛かった辺りで、男が女に追いつくと、女はシュルレアリスム絵画の虜になっていた。ダリにマグリットにデ・キリコ。それにシャガールの描いた不思議なうさぎの絵や、雲の上に蝶々が舞っている絵、不思議な生物が描かれている絵、女はその一つ一つを愛ているようだったが、その中でもダリの大きな雲と女性が描かれている絵が特に興味を惹くようだった。題名は「幽霊と幻影」。1934年に制作された絵に彼女が吸い寄せられていく様は、さながらダリの幻影に捕われているように見えて不思議な感覚がする。

男はしばらく絵を観たのち、絵を観る彼女の横顔へと視線を落としていった。一つにまとめた黒髪、チークにも染まらない白い横顔、細い首にちらりと見えるうなじ……
パッと女が振り返ると、男が顔をじっと見ていた。それが可笑しくて女が笑うと男も微笑んだ。二人はまた展覧会を奥へ奥へと進んでいく。



横たわる裸体の夫人、湯に浸かる女性、大きな青い鳥の絵、機械の絵、幾何学なアートに抽象的な彫刻……美術館はさながら不思議の国だ。もしも、不思議な世界に迷い込んだとしたら、きっと男はじっくりと状況を観察し、女は興味のあるものを探すだろう。
男は空想の庭のトリオの前で共通点を探し、
女はモダンガールのトリオの前でスカートを翻した。
男は3枚の子どもや少女の肖像画を比較し、
女は色をぶちまけたモダンアートを2回観た。
男は青地に鮮やかに赤が浮かぶ絵を観察し、
女は空を閉じ込めたガラスの鳥籠を撮影した。
男も女も時折互いを確認し、
二人の視線は同じ線上で溶け合った。
展覧会最後の作品はマラソンを人生に重ねた映像作品だった。走る男がいくつで就職して、いくつで結婚して、子どもが生まれて、そして奥さんが出て行って……とナレーションをする作品。最初は立って観ていたが、男が椅子に座ると、女も椅子に座った。他の客がスマホをいじったり、途中で退席する中、男はこの映像作品を食い入るように観ていた。
女は横から男の姿を見る。ウェーブした黒髪に黒縁の眼鏡を掛けて、長い首とすらりとした手足を持つ男。水色のシャツと燕脂のネクタイ、濃紺のベストとパンツがよく似合っている。男は女の気配に気付き、ちらりと女を見ると、女は映像へと目を背けた。男は口元を綻ばせながら映像へと視線を戻した。
程なくして作品は終わったが、それは即ち作中の男の死を意味していた。エンドロールの中、男も女も立ちあがろうとはしなかった。
誰しもがずっとこのまま、この世界を彷徨ってはいられない。いつかは終わりが来る。それはこの作品も、展覧会も、そして人生も同じだろう。男も女もそんなことは分かっていた。しかし、二人は終わりに対してずっと黙り続けている。
しばらくの後、沈黙を破ったのは、女の方だった。
「もう一度」女が声にならない吐息に言葉を載せると、男は待っていたかのように「行こうか」と女の手を取った。終わる夜に一縷の希望を見出したのか、はたまた終わりを目の前にして精一杯抵抗をしているのか。二人は椅子から立ち上がり、今来た順路を愛おしそうに辿ってゆく。
夜の鑑賞会は、まだ終わらない。


